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宗麟原供養塔

記事ID:0001509 更新日:2020年12月22日更新 印刷ページ表示
11 住み続けられるまちづくりを

宗麟原供養塔の由来

天正6年(1578年)11月、日向のほぼ全域を手中に収めた島津氏と、豊後の大友氏の壮絶な戦いが木城町高城川原(小丸川)で行われた。
西の関ヶ原といわれた九州を二分する合戦である。

大激戦の末、大友軍は大敗し、島津軍は逃げる大友軍を美々津の耳川まで追撃し、この間の草原は血に染められたと伝えられている。
戦死者の数は、大友軍4千、島津軍3千といわれ、その死者を葬ったのがこの円塚である。


宗麟原供養塔は、7回忌にあたる天正13年に高城城主山田新介有信が、敵味方の区別なく戦死者の霊を慰めるために建てたものである。
供養に来た人が打ち鳴らす鐘(写真右)の音から、「かんかん仏」の愛称で親しまれている。

供養塔の高さは約3.5m(台座を合わせた高さ)であり、一辺24mの円塚の一部を削って建立されている。

宗麟原供養塔(写真)

石塔について

四角形の竿石には、側面に銘文が刻まれている。その一部を紹介したい。

供養塔銘

「本来無東西 何処有南北 迷故三界城 悟故十方空(本来東西なし、いづくにか南北あらんや、迷うが故に三界は城、悟るが故に十方空)」と刻まれている。

意味としては、以下のような内容である。
「人々はこちらが東、こちらが西と言っているが、これは本来(ずっと古い時代から)あったものではなく、人間が方向を知るために、仮に定めたものに過ぎない。
東西がそうであるから、南と北も同様に、人間が仮に定めたことに過ぎず、本来あるはずはない。
しかしこのようなことに迷うから東があり西があり、南は薩摩、北は豊後として敵対するようになるのである。
悟れば南も北もなくなり、みな日本人となる。即ち十方空である。」

人間は死んでしまえば十方空、すなわち敵も味方もない世界に行く、ということである。
これは人間の生涯のあり方を示す仏教の言葉であり、このような仏典を引用して両軍の各霊を弔った山田新介有信の優れた人間性を偲んでやまないものがある。

(※参考:宗麟原供養塔四百年祭奉賛会『記念誌 十方空』)

「松山之陣(松山城跡、松山塁)」について

 松山之陣は、小丸川左岸の国光原台地の南西端に位置する陣跡である。
 曲輪がそれぞれ独立しており、相互の連携がかなり疎な、典型的な南九州の城郭であると言える。
 松山之陣は、次の大きな2つの戦いでその名前を見ることができる。

 1つは、豊後を本拠として北九州に勢力を広げていた大友氏と、南九州に勢力を広げていた島津氏との戦いである。
 島津軍の家老・山田新介有信の守備する、高城(現・木城町)を大友軍が包囲した際、松山之陣は大友軍の先鋒である佐伯宗天が陣を敷いていた。
 島津軍は松山之陣に急襲をかけ、攻撃を受けた大友軍は、およそ500人が犠牲になったという。

 2つめは、九州平定に乗り出した豊臣氏と、九州に大きな勢力をもっていた島津氏との戦いである。
 島津氏に敗れ去った大友氏は、島津氏の九州制覇を防ぐべく、豊臣秀吉に協力を要請した。
 要請を受けた秀吉は、九州に約30万の大軍を派遣。そのうち、秀吉の弟である秀長が約15万の軍を率い、高城を攻める際に陣を敷いた場所が、松山之陣である。
 高城を守備していた山田新介有信は、豊臣軍の猛攻を受けるも、寡兵で持ちこたえる。
 最終的には、根白坂の戦いで敗れ、豊臣氏の軍事力を見せつけられた島津氏は、降伏を申し入れることとなる。

 松山之陣は、豊臣氏に関連する数少ない陣跡である。

 開発による影響も少なく、当時の姿を残しているという点で、当時の歴史を探る上で非常に重要な陣跡であり、地域の誇りとして未来に残していかなければならない存在である。